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TIME PATROL The Branch of 20th Century |
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STUDY12 マラトンの戦い前夜
■マラトンの戦い前後のギリシア(アテナイ)とペルシア
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■ペイシストラトスがアテネの僭主となる(B.C.560〜527) |
■キュロス二世の治世(ペルシア帝国の始まり)(B.C.559〜530) |
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エクバタナを攻略(B.C550) |
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バビロンを攻略(B.C539) |
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■カンビュセスの治世(B.C.530〜522) |
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■ヒッピアスとヒッパルコスの僭主政治(B.C.527〜514) |
エジプト遠征(B.C.525〜522) |
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ヒッパルコスの暗殺・ヒッピアスの暴政(B.C514) |
■ダレイオス1世の治世(B.C.522〜486) |
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ヒッピアスの追放(B.C.510) |
リビアとスキタイへ遠征(B.C.513) |
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■クレイステネスの改革(民主政治の始まり)(B.C.508) |
イオニアの反乱(B.C.500〜493) |
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■クセルクセス1世の治世(B.C.486〜465) |
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■デロス同盟成立(アテナイのギリシア掌握)(B.C.527〜514) |
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アテナイの存在するギリシア世界ではBC3200頃にエーゲ文明が始まった。BC2000頃にはクレタ島にミノア文明が興りるが、BC1200頃に崩壊、空白の暗黒時代が訪れる。ギリシアの歴史が再び表舞台に現れたのはBC9世紀で、この頃にはギリシア本土に勢力が移っていた。中でもアテナイとスパルタが最も勢力が強かった。 |
現在のイランに位置するペルシア帝国はBC559年に王位を継いだキュロス2世から始まる。BC550頃にメディアの王アスチュアゲスを破ったことをきっかけにメディア帝国全土の支配権を得、巨大な帝国を築き上げた。キュロスの後にカンビュセス、バルディヤが王位を継ぎ、次いでBC521年、ダレイオス1世が王位につく。 |
■戦いに至るまでの背景
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ギリシアではBC650頃、僣主政が興った。アテナイではBC560にペイシストラトスが僣主となり、のちの民主制に至る改革の道を開いた。やがて彼の息子ヒッピアスとヒッパルコスが僣主を継ぐが、ヒッパルコスはBC514年に青年貴族に暗殺され、ヒッピアスは圧政を敷いたことでBC510年に追放される。 一方、ペルシア帝国の王、ダレイオスは着々と版図を広げ、BC510までにはイオニア・トラキア・マケドニアまで勢力を伸ばした。そんな中BC505年、アテナイから追放されたヒッピアスが、ダレイオスの弟アルタフレネスが支配するサルディスにたどり着き、アルタフレネスに復権の手助けを依頼する。しかしすぐアテナイの使節が来て、それを阻止しようとするが、アルタフレネスはヒッピアスを支援することにし、アテナイを敵に回した。 この影響はすぐに現れた。BC500年、ナクソス島の反乱をきっかけに、イオニアでも反乱が発生した。ヒッピアスの復帰を恐れるアテナイはこれを支援し、ギリシア軍はサルディスを攻撃、町を焼いた。しかしその後の戦いでギリシア軍は敗退したことで引き返した。 ダレイオスは反乱に加担したアテナイに対して復讐を誓った。そしてイオニアの反乱が鎮圧された翌年のBC492年に義理の息子マルドニオスをギリシアに遠征させるが失敗する。その翌年、ダレイオスはギリシア諸国に使節を送り服従を求めた。しかしアテナイはこの使節を即座に処刑してしまう。これに対しダレイオスはBC490年、ダティス率いる艦隊にエーゲ海を渡らせ、アテナイを攻撃させる。年老いたヒッピアスはアテナイに復帰する夢が捨てきれず、艦隊に同行していた。ペルシア軍はカリュストス、エレトリアを陥落させ、数日後マラトン湾に上陸する…。 |
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■マラトンの戦い
エレトリアを陥落させた後、ペルシア艦隊はさらに南下し、マラトンに停泊した。アテナイ軍はフィリッピデスをスパルタまで走らせて援軍を求めたが、スパルタはアポロンを祭神とするカルネイア祭のため、軍隊を派遣することができなかった。
ペルシア艦隊の指揮官、ダティスは数日の間マラトンに軍隊をとどめた後、防御の薄いアテナイ市に艦隊の一部を差し向けた。アテナイの指揮官ミルティアデスは攻撃を決断、数で勝るペルシア軍に対抗するために戦列を伸長した。ペルシア軍はアテナイ軍の戦列の薄い中央を突破したが、アテナイ軍の両翼はペルシア軍を敗走させた。ヘロドトスによれば、この合戦における戦死者の数はペルシア軍が6400、アテナイ軍は192であったという。
アテナイ軍はマラトンでの戦いが終わった後、直ちにアテナイへ戻り、ペルシア艦隊がファレロンに到着するのを待ち受けた。ダティスは2度目の戦いで犠牲者を出すよりも撤退を選び、アジアに引き返した。
■ミルティアデスの策略(ヘロドトス『歴史』より抜粋)
さてこの時マラトンに布陣したアテナイ軍の陣形には次のような特異点があった。アテナイ軍は戦線の幅をペルシア人と等しく張ったのであるが、その中央部は僅か数列の厚みしかなく、アテナイ最大の弱点がここにあった。ただし、両翼は十分の兵力を具えて強力であった。
陣立てを終わり犠牲の卦を示したので、アテナイ軍は進撃の合図とともに駆け足でペルシア軍に向かって突撃した。両軍の感覚は八スタディオンを下らなかった。ペルシア軍はアテナイ軍が駆け足で迫ってくるのを見て迎え撃つ態勢を整えていたが、数も少なくそれに騎兵も弓兵もなしに駆け足で攻撃してくるアテナイ兵を眺めて、狂気の沙汰じゃ、全く自殺的な狂気の沙汰じゃと罵った。ペルシア方はアテナイ軍の行動をこのように受け取ったのであったが、一段となってペルシア陣内に突入してからのアテナイ軍は、まことに語り伝えるに足る目覚ましい戦いぶりを示したのである。
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■アテナイの重装歩兵の密集方陣 鎧や兜、楯など防具の発達に伴って、ギリシアでは紀元前7世紀頃から戦争の中心が重装歩兵に移っていった。敵を攻撃する時、彼らは部族などごとにファランクスと呼ばれる密集方陣を作った。先頭の兵士達が長い槍を前にすると、敵は近づくことができなかった。 |
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