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STUDY18 ドラキュラ伝説
 

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▼ 第18話『ドラキュラの館』を読まれた方は、次のような疑問をお持ちでないだろうか。「現実の史実として、ドラキュラは1485年に死亡して15万人を殺したのか、1476年に死亡して10万人を殺したのか」。つまり凡とユミ子は現在の史実を塗り替えてしまったのか、それとも凡とユミ子が歴史を換えてしまったからこそ現在の史実があるのか、という疑問である。

▼ この答えは後々述べるとして、『ドラキュラの館』という作品は物語を面白くするためにかなり史実を脚色している。ドラキュラという人物像も、作品では冷酷無比な人物として描かれているが、彼の残虐な行為があったこと自体は否定できないまでも、それなりの理由があったとも言えるし、ルーマニアの伝承には彼を英雄扱いしているものも中には見られる。

▼ ここでは作品中には描かれなかったドラキュラ像を15世紀のヨーロッパの情勢と併せながら見ていきたいと思う。

 

呪われた血筋

 ドラキュラとその父は共に洗礼名を「ヴラド」といった。そして父には「ドラクル」、本人には「ヴラド・ツェペシュ」「ドラクラ(ドラキュラ)」の2つのあだ名を付けられた。

 「ドラクル」「悪魔」「龍」の意味がある。これはドラクルが1431年、ローマ帝国皇帝から「龍」の勲位を授けられたことから由来する。
 
「ヴラド・ツェペシュ」「ヴラド串刺し公」を意味し、「ドラクラ」「龍の子」「悪魔の子」を意味する。

また、彼の弟はその美貌のために「美男公」、彼の息子達は長男が「小串刺し公」次男は「悪党公」、もう一人は「背教者」などと呼ばれていたことからも分かるように、ドラキュラ一族はそのほとんどが凶暴に生き、そして壮絶な最期を遂げている。

※ 作品中で作者は19ページでドラキュラのあだ名を「ドラクル」としているが、これは誤りで、「ドラクルの子」を意味する「ドラクラ」が正しい。

家系図

 

ドラキュラの生涯

 ドラキュラは1430もしくは1431年にトランシルヴァニアのシャスブルクという町に生まれた。父ドラクルは彼がまだ1歳にならない1431年2月にニュルンベルクに赴き、龍の騎士に叙任された。
 
1436年から1437年にかけてドラクルは当時のワラキア公を追放して自らがワラキア公となった。ドラクルは次第にトルコ(オスマン帝国)が力を付けてきているのを感じとると、主君である神聖ローマ皇帝を裏切り、トルコと同盟を結んだ。1438年、ドラクルはトルコ軍と共にトランシルヴァニア襲撃に加わった。しかし、神聖ローマ皇帝を完全に裏切ることはできなかったらしく、自ら降伏してきた町には彼らの命を奪うことはしなかった。
 こういったことが続いたため、トルコのスルタン(主君)はドラクルの忠誠心を疑いだし、
1444年ドラクルをトルコに招く。罠とは知らずドラクルは次男ドラキュラと三男ラドゥを連れてトルコに向かった。罠にかかったドラクルはわずかな期間拘禁されたのち、トルコへの忠誠の誓いをたて、その証として、二人の息子を人質として残すことになった。
 何とか無事にワラキア公に返り咲いたドラクルは、さすがにローマ皇帝に対する誓約を無視するわけにもいかず、二人の息子が人質になっているにも関わらず、対トルコ戦のために組織された、ハンガリー王フニャディ・ヤーノシュ率いるバルカン十字軍に加わった。
1443年の長期戦では勝利を収めたが、翌年のヴァルナの戦いではバルカン十字軍は敗北を喫した。ドラクルとドラキュラの兄ミルチャはこの敗北の責任をフニャディにあると主張した。このことからフニャディはドラクル一族に深い憎悪を抱くようになり、1447年、ドラクルとミルチャはフニャディの手の者によって惨殺された。その後、フニャディはヴラディスラヴ二世にワラキア公の冠を渡した。

 一方、人質として囚われていたドラキュラは1448年、トルコから解放された。ハンガリー宮廷につながるヴラディスラヴ公を気に入らないトルコはわずか二ヶ月の間だが、ドラキュラをワラキア公につかせた。しかし、20歳にも満たないドラキュラは父を殺したトランシルヴァニアや自分を幽囚したトルコを恐れ、いとこシュテファンのいるモルダヴィアへと逃れた。モルダヴィアはシュテファンの父ボグダン公が治めており、ドラキュラはボグダン公が殺害される1451年までここにとどまる。

 ボグダン公が殺害された後、ドラキュラは父と兄の暗殺の扇動者であったフニャディの元へやむなく情けをすがりに出かける。フニャディ自身、自らワラキア公として立てたヴラディスラブ二世が親トルコ政策を取り出していたため、ヴラディスラブに代わるワラキア公として、自分に従順な手先を用意しておく必要があった。
 こうして
1451年からフニャディがペストに斃れる1456年までドラキュラは父と兄の敵であるはずのフニャディの元で、忠僕のようにフニャディの合戦に出陣していた。 《右上へ》

 そして1456年、ドラキュラは再びワラキア公となる。ドラキュラはこの年、9年前に殺された兄ミルチャの墓を掘り出すよう命じた。そこには明らかに生き埋めにされ、もがき苦しんだまま絶命した兄の変わり果てた姿があった。この時からドラキュラの貴族達への復習が始まったのである。(ここから始まるドラキュラの残虐行為については次項で述べる。)
 
1461年、地理的に反トルコ十字軍の最前線に位置していたワラキアにトルコ側の使者がやってきた。使者は話し合いを持ちかけてきたが、ドラキュラは過去に父親が同じ手でだまされたことを忘れてはいなかった。ドラキュラはトルコ側の裏をかき、話し合いの場所として設けられていた城塞都市にいたトルコ軍分遣隊兵士を全員捕らえ、ワラキアの首都トゥルゴヴィシュテまで連行し、そこで全員串刺しにし、見せしめのためにそのまま放置した。
 この行為が事実上の宣戦布告となり、ドラキュラはトルコに攻め入ることになる。このトルコに対する攻撃はキリスト教十字軍戦士としてのドラキュラの名声を確立した。彼の攻撃はその年いっぱい続くことになるが、
1462年が明けてからはゲリラ戦を展開しながらも、ひたすら撤退することになる。
 結局トルコのスルタン・メフメットはワラキアの首都トゥルゴヴィシュテまで攻め入るが、すでにこの都市は棄てられていて、そこにあったのは、
1461年に串刺しにされたトルコ軍兵士の死体の群れだった。このおぞましい光景を見たメフメットは「このような男を相手に戦って、いったいなにができよう?」と言い、トルコ軍の一部隊を除き退却を命じた。残った一部隊にはドラキュラを捕らえる命を与えた。
 ドラキュラは自らの城まで逃れたが、そこも危険だと知ると『ドラキュラの館』でも登場した井戸の抜け道を通って脱出した。彼はフニャディの子で当時のハンガリー王であったマーチャーシュに助けを求めるが、ドラキュラに恨みを持つドイツ人の陰謀のために逆にマーチャーシュに監禁されてしまう。

 1462年に監禁されてから12年後の1974年にドラキュラはやっと解放される。その際ドラキュラはマーチャーシュ王の妹と結婚している。彼女との結婚は東方正教会からカトリックへの改宗を意味していた。この結婚にはワラキア公への返り咲きを目するものであったのかもしれない。その後ドラキュラは義理の兄となったマーチャーシュの元でトルコと戦うこととなった。

 そして1476年11月にはみたびドラキュラはワラキア公に叙せられた。(「T・Pぼん」はこの年を舞台としているが、この3度目の統治の際にはドラキュラ城は使われていなかった。この城が活躍したのは2度目の統治の時である。)しかし、12月にブカレストの郊外でトルコ軍と戦っていた際、味方とはぐれてしまったため、トルコ兵に変装していたところ、トルコ軍の隊長と間違えられ、味方によって殺されてしまった。

 

ドラキュラの伝説

 

 ドラキュラの元にある外国商人が訪れた。ドラキュラは彼に荷物を乗せた馬車を公共の広場に置いて宮殿で休むように命じた。ところがその夜の間に商人の160枚の金貨が盗まれてしまった。
 商人がドラキュラに訴えると、ドラキュラは盗人も金貨も必ず見つけだすと約束した。ドラキュラはどちらも見つけだす自信があったため、家来に命じて自分の金貨161枚を商人の馬車に戻させておいた。そしてドラキュラは町の人々に「すぐさま盗人を見つけだせ。さもなくば町を打ち壊すぞ」と申し渡した。
 商人は馬車に金貨が戻っていることを発見し、その数を数えてみると一枚多い。彼はドラキュラにその旨を告げる。そこへ盗人が宮殿へ引き立てられてきた。ドラキュラは商人に向かって言った。「心安んじて帰るがよい。お前が正直に話さなかったら盗人と共に串刺しにしてやるところだったぞ。」

 ワラキアにトルコの使者がやってきた。使者達は公の謁見の間に入ったが、習慣に従ってターバンを脱がずに御辞儀をしたため、ドラキュラは何故ターバンを脱がないのか訊ねた。トルコの使者はこれが自国の習慣であるからと答えた。そこでドラキュラは「その方らが厳重にその習慣を守ることができるよう、習慣を強化して進ぜよう」と言い、家臣に命じてトルコ人の使者の頭にターバンを釘付けにした。
 ドラキュラは彼らを返す際、「自分の国の習慣を、それを受け入れない他国の君主に押しつけるのはやめて、自国の中でのみその習慣を守るようにと、主に伝えろ」と言ったという。

 ドラキュラによる殺戮の様子を見ていたある貴族がその悪臭に耐えられず思わず鼻をつまんでしまった。それを見たドラキュラはひねくれたユーモア精神で、ただちに家来に命じてその貴族をとりわけ高い杭を使って串刺しにした。それは高い位置にいれば、周りの悪臭に悩まされずにすむだろうという理由だった。

 ある日、ドラキュラはぼろぼろの服を着て働いている農夫を見かけた。ドラキュラは彼を宮殿へ連行して、訊ねた。ドラキュラは彼に健康な妻がいること、彼はしっかりと働いていることを確認した後、彼の妻を連行し、「種をまき、刈り入れをし、お前を養うことが亭主の義務である。一方、亭主にちゃんとした身なりをさせるのはお前のつとめである。しかしお前は健康であるにも関わらず、亭主の服を洗うことすらしようとしない。亭主が働かないと言うのなら亭主の方が悪いのだが。」と言い、彼女を串刺しにしてしまった。

 ルーマニア・ドイツ・ロシアには上に挙げたもの以外にもいくつかの伝承・記録が残っている。
 ドラキュラはルーマニアでは十字軍の英雄であり、ドイツ人とっては同族民を虐殺した敵であり、ロシアにとっては東方正教会を棄てた裏切り者であった。そのため、似たような話でもそこに登場するドラキュラ像は全く異なっている。例えば、トルコ人のターバンを釘付けにした話はルーマニアでは釘付けにしたのではなく、釘を使者に持たせただけである。
 これらのドラキュラの虐殺は常軌を逸しているが、それなりの理由がなかったわけでもないのである。前項でのドラキュラの生涯で紹介したが、彼は父と兄を貴族達に殺されている。このことが彼の貴族達への異常なまでの憎悪を生んだものと思われるし、彼のトルコによる幽囚はトルコ人に対する不信の念を抱かせることになったのであろう。
 ドラキュラは自らの国に厳格な道徳律を敷こうとした。その手段として、「恐怖」が用いられたのである。

 

年 表

■年代

■ワラキア統治者

■主な出来事

1422

トルコ軍コンスタンチノープル攻略に失敗

1431

ドラキュラ誕生
父ドラクル、対トルコ戦のために組織された龍の騎士に叙位される。

1436

ヴラド・ドラクル(〜42)

1440

1442

バサラブ二世(〜43)

トランシルヴァニアとワラキアにおいて、フニャディ・ヤーノシャュ、トルコ軍を破る。

1443

ヴラド・ドラクル(〜47)

ドラキュラと弟のラドゥ美男公、オスマン帝国の人質となる。
オスマン帝国におけるフニャディの長期戦(〜44)

1444

ヴァルナ十字軍。ドラキュラと弟、死の危険にさらされる。

1447

ドラキュラの父ドラクル、兄ミルチャが殺される。

1448

トルコ軍、フニャディを破る。
トルコ、アルバニアを除くバルカン全土を征服。

 

ヴラド・ツェペシュ(10〜11月)

 

ヴラディスラヴ二世(11月〜1456)

1453

トルコ軍によるコンスタンチノープル陥落。

1456

ヴラド・ツェペシュ(〜62)

フニャディ・ヤーノシュ死す。
モルダヴィア、トルコに貢献する。

1457

 

ドラキュラのいとこシュテファンがモルダヴィア公となる。

1458

 

トルコ、アテナイを征服。
マーチャーシュ・コルヴィヌスがハンガリー王になる。

1462

 

トルコ軍のワラキア戦役開始。
ドラキュラ、マーチャーシュ王に捕らえられる。

ラドゥ三世(〜73)

1473

バサラブ・ラヨタ(〜74)

1474

ドラキュラ、マーチャーシュ王により釈放される。

1475

ラドゥ三世(〜73)
ラドゥ三世(〜73)バサラブ・ラヨタ(11月〜1476)

1476

ヴラド・ツェペシュ(11月〜12月)

11月、ドラキュラによるワラキア統治が始まるが、12月、ブカレスト付近の戦いで殺される。

 

ドラキュラ伝説

『ドラキュラ伝説 吸血鬼のふるさとをたずねて

 レイモンド・T・マクナリー+ラドゥ・フロレスク著 矢野浩三郎訳
 角川選書−26 昭和53年11月30日発行 現在品切れ・重版予定なし

 作品中にも登場していた本。本コーナーもこの本の内容を要約するという形を取らせていただいた。作品では徹底的に残酷な人物として描かれていたドラキュラの意外な側面を知ることができる。今では書店で入手することはできないが、図書館などには置いていると思われるので、是非一度読まれることをお薦めする。


 

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